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「そして、世界は泥である」インタビュー#2
(2024年2月14日/京都芸術センター制作室2)
話し手:林智子(本展出品作家) 聞き手:安河内宏法(京都芸術センタープログラムディレクター)
ロンドンでの学生生活を終えた後も引き続き、ヨーロッパに残り活動されましたね。
そうですね。アイルランドの首都ダブリンに半年ほど、滞在しました。当時ダブリンにはアイルランド 政府がマサチューセッツ工科大学(MIT)のエンジニアや研究者に資金援助をして作った「Media Lab Europe」がありました。そのラボには、デザイナー、アーティスト、コンピューターサイエンティストといった様々な専門性を持った人たちが集い、10人ずつぐらいのグループに分かれて、共同研究を行っていました。私は、そこでHuman Connectedness Groupというチームに加わり、人と人をつなぐテク ノロジーのあり方を探る共同研究をしました。
Media Lab Europeで、林さんは何をされていましたか。
アーティストとして制作することが私の役割でしたので、在籍している間は、アイデアを出し続けました。先ほど言った通り、エンジニアや科学者もいましたから、私がアイデアを出すと、すぐに形になっ ていくことに驚くとともに、とても刺激的で面白い経験をさせてもらいました。 私がMedia Lab Europeにいたのは、アートと、サイエンス&テクノロジーを掛け合わせるような試みが ヨーロッパで隆盛しようとしていた時期だと思います。幸いなことにそのラボで制作した作品がすぐに、ヴィクトリア&アルバート美術館で開催された「Touch Me」(2004)という展覧会に出品されることになりました。その展覧会は触覚をテーマに実際に作品に「触れる」ことに特化したものでした。 最初に出品依頼をいただいたとき、完成した作品でなくても、将来的に作る作品のコンセプトを展示してもらうだけでも構わないと依頼をいただきましたので、のちに国立国際美術館の「現代美術の皮膚」 展(2007)に出品することになる
《Mutsugoto》
のプロトタイプを制作しました。
《Mutsugoto》は、いま風の言い方をすれば、バズった作品ですね。
そうですね。ヴィクトリア&アルバート美術館の展覧会以降、私は、《Mutsugoto》を発展させていったのですが、その過程で、英国放送協会(BBC)のオンライン記事に掲載されたりもしました。当時はインターネットが隆盛していたタイミングでしたので、その取材のあとは、世界中の遠距離恋愛のカッ プルから毎日のように連絡が来ました。そもそも、当時の私の作品は、アートとして見ようと思えばアートだし、デザインとして見ようと思えばデザインであるような、特定のジャンルに納まるようなものではなかったと思います。実際にアートの本にもファッションやジュエリーの本にも、取材をしていただきました。その意味で、《Mutsugoto》のような当時の私の作品は、多くの人に関心を持ってもらえたのだと思います。でも、その分、悩むことも多かったです。例えば、アートとテクノロジーを結び付ける展覧会やプロジェクトに呼んでもらうことも多々ありましたが、そうした場でテクノロジーを社会的なコンテクストを持たずに使用している状況を目にすることが多かったです。私はそうした状況に疑問を持っていて、Media Lab Europeがやっていたような、人間社会にとってどうテクノロジーが関わるべきかというような問いが前提にあって、それに対してテクノロジーを用いるというようなあり方に、 私は興味がありました。
しかし、その後の作品を見ると、林さんの作品の中にはテクノロジーを用いていない作品もあります ね。
そうですね。ヨーロッパから帰国した後は東京大学情報理工学部の研究室に所属しました。そこでも私はアーティストとして、テクノロジーに対して何かを提案することを期待され招聘いただいたのだと思います。でもだんだんと、私の作家としてのイメージが「テクノロジーを使うアーティスト」に限定されていくような気がして、悶々としていました。ちょうどそういう時期に、東日本大震災が起きて、いったんテクノロジーから離れ、別のところに意識が向くようになりました。 その時に作った作品が、
《Tea Mirror》
です。この作品は、世界中の人々に便箋と小さなボトルを送 り、涙とその涙をめぐる物語を採集し、集められた涙を琥珀菓子にして、それをジュエリーのようなかたちに作りました。作品のきっかけは、感情の共有のし難さです。感情は言葉にならないこともあるし、言葉にしたくないこともあるでしょう。そうした言葉以前の感覚、あるいは言語とは相いれない感覚を共有するために、私が着目した手段が「食べる」という行為でした。だからこの作品においては、 感情を琥珀菓子に結晶化することにしました。
人から話を聞いて、それを作品化する。《Tear Mirror》のそうした作り方は、今回の「そして、世界は泥である」展にも共通していますね。
今回の展覧会では、京都芸術センターのボランティアスタッフさんに、インタビューをさせてもらっています。先日話を聞かせてもらった方は、亡くなったお父さんのことが大好きだったと仰っていまし た。そのお父さんは何も言わずに、ただ話を聞いてくれる大切な存在だったそうです。私はその方のお話を聞きながら、そういう人が一人いるだけで、人生が救われる気になるだろうなと思いました。きっと誰しも、自分の声を聞いて欲しいのだと思います。
「聞く」という行為は不思議ですよね。相手に何かを与えるものではないのですが、それでも、人を元気づけたり支えたりすることができます。
「聞く」という行為は、鏡になぞらえることができるだろうと思います。仏教に融通無碍という言葉が ありますが、無碍という言葉は、妨げるものが何もないこと、すなわち、曇りのない鏡だと聞いたことがあります。一般的に、他者とのコミュニケーションにおいては、自分の言っていることが他人に曲解されたり、あるいは自分自身も他人の言葉を歪めて受け取ったりします。しかし、磨かれた鏡であれ ば、すべてをそのまま送り返してくれるでしょう。 私はずっと、そうした人同士の関係性に関心があります。ひとりで存在するのではなく、互いに映しあうことで、存在が強くなる。互いに照らしあったり触れ合ったりすることで、存在が支えられるような、そのような関係性です。
【3回目に続きます】
Mutsugoto