「そして、世界は泥である」インタビュー#1

(2024年2月12日/京都芸術センター制作室2)

話し手:林智子(本展出品作家) 聞き手:安河内宏法(京都芸術センタープログラムディレクター)


展覧会の準備を始めた早い時期から、今回の展覧会は、「原体験」や「原風景」 がキーワードになると仰っていましたね。林さんご自身にとっての「原体験」や 「原風景」はどのようなものですか?

9歳のとき、アメリカ合衆国ニューメキシコ州のロスアラモスに、生物学者の父親の仕事の関係で引越ししました。

そのときに触れたニューメキシコの自然やその中での生活が、強烈な体験として、いまでも私の中でヴィヴィットに残っています。ロスアラモスは、第二次世界大戦中、原子爆弾の開発・製造を目指すマンハッタン計画の中枢を担ったロスアラモス国立研究所のある街として知られています。写真家のウィリアム・エグルストンがその作品「Los Alamos」で写した街に私は住みました。

そこは広大な砂漠が広がり、遠景にはロッキー山脈を望むことのできる土地でした。アメリカに引越しする前の家は、兵庫県宝塚市の山間にあったので、自然に触れていなかったわけではないのですが、日本の自然とニューメキシコの自然は、全くと言っていいほど違っていました。ニューメキシコにあったのは圧倒的な自然の強さ。日本とは全くスケールが違っていて、ヴィム・ヴェンダースの映画 「パリ、テキサス」に映し出される荒涼とした土地のような風景、あるいは火星の風景が見ることができるとしたら、きっとこういう風景なのだろうなと思わせるような風景でした。

ロスアラモスでの生活は、どのようなものでしたか?

ロスアラモス国立研究所は、第二次世界大戦が終わった後に、軍事研究のほかに一般的な理学・工学の研究を行うようになり、私の父親がそうであったように、 世界中から研究者が集まってきていました。そうした経緯から、ロスアラモスには科学者が多く、また私のように外国から来ている子どももいました。私が通っていた小学校にはサイエンスフェアがあり、子どもたちがポスター発表したりするなど、ロスアラモスには、誰もが科学に触れることのできる文化があったと思います。 一方で、先ほどお話したとおり、広大な自然が広がっていましたので、なんといえばいいのか、自分自身のちっぽけさを感じました。例えば、日本で過ごしていると、他の人から自分がどう思われているだろうと考えたり、自分自身が他人のことを気にしたり、そういった意味での自意識に囚われることがあると思います。しかし、巨大なスケールの自然を前にして、自分自身の小ささを感じるのなら、そういう自意識なんてどうでも良いと、自意識から解放されたかのような感覚を覚えました。 もちろん、だからと言って、人のことに無関心な雰囲気があるということではありません。一度家族で出かけたときに、父の運転する車が砂漠の真ん中でガス欠になってしまったことがありました。そのときに、心優しい人が助けてくれたことを覚えています。人に干渉することはないけど、圧倒的な自然の中で、人同士が親切に助け合って生きている。ロスアラモスは、そういう土地でした。

そういう場所から日本に戻ってくると、今度は日本の風土や文化に面食らったのではないですか?

そうですね。ニューメキシコは乾いた土地でしたので、日本に帰ってきて、飛行機を降りたときに身体中に湿度がまとわりつく感覚があり、驚きました。それ以外にも、やはり文化の違いも大きくありました。帰国後、神戸の中学校に通うことになるのですが、ニューメキシコで感じたような自分の自意識から解放されている感覚は、言葉で説明できるものではなかったので、中学校の同級生と共有するのは難しかったですね。ひとり星を眺めて、宇宙の壮大さを思うような、そういう中学生時代を過ごしました。ただ、中学校時代の美術の先生だけは、私が授業中に作るものを見て、「スケールが大きい」と言ってくださったり、進路を考えているときには、「美術系の高校を目指すのなら指導します」とも言ってくださってうれしかったです。結局、私は美術系の高校には進学しませんでしたが、その先生との出会いが、いまも美術をやっているひとつの要因かもしれないと思っています。  

もうひとつ、中学校時代には大きな出来事がありました。1995年1月の阪神淡路大震災で被災したことです。神戸の中学生として、私は、崩壊する建物や、水や電気などのインフラが破壊されている状況を目の当たりにしました。そうした状況の中で、この社会を成り立たせる制度やシステムを、絶対視することはなくなったように思います。

アーティストになろうと思ったきっかけはあるのですか?

もともと、母親が美術に関心を持っていた人だったので、幼少期から美術館に連れて行ってもらったりはしていて、美術に慣れ親しんではいましたが、自分が将来何になるかについて、はっきりとしたイメージがあったわけではありません。高校3年生になって、進路を考えないといけない時期になったときには、母に画塾にでも行ってみたら、と言ってもらいました。そういった意味で、母に背中を押してもらったのかもしれません。 その後、大学は京都精華大学に進学しましたが、京都精華大学もまた、不思議なところでした。いまの社会のルールが全てではないと感じさせる雰囲気とでも言えばいいのでしょうか。当時の精華は、資本主義の外にあるような感じで、社会の中で「正しい」や「良い」とされているものにすがるような権威主義から遠く離れているような文化がありました。ニューメキシコや震災のときに感じたような、「日常的な社会」の外を感じさせるような場所でしたね。精華では染織を学びました。私が在籍していた頃は、最初の2年間は伝統的な染織技法を学び、最終的には、学んだことを個人の表現としてアウトプットすることを目指すカリキュラムで、私は卒業制作に「皮膚感覚」をテーマにした作品を制作しました。肌を思わせる布に、ひだを作る技法であるスモッキングをして、人体が天井から作り下げられているようなインスタレーションでした。皮膚感覚というテー マは、神戸ファッション美術館の図書室で手に取った、ミシェル・セールの著作『五感』に由来します。ミシェル・セールの論旨をひとことでまとめることは難しいのですが、大雑把にまとめると、「皮膚において主体と客体が混じり合う」や「皮膚と皮膚が触れ合うところに魂が宿る」というような内容が書かれていました。この「皮膚感覚」というテーマは、その後の作品においても展開することになります。

京都精華大学卒業後は、ロンドンに留学されましたよね。

そうですね。大学を出てからは、ロンドン芸術大学の一つ、セントラル・セント・ マーティンズに通いました。ロンドンでも引き続きテキスタイルデザインを勉強し、当時は、遠距離恋愛中の恋人同士のための作品を作ったりしていました。例えば、そのころの作品に《Intimacy》があります。日本語で「親密さ」という名前をつけたこの作品は、ジュエリーをシルクの生地に包み、それを高温でプレスすることで作る作品です。恋人が身に着けていたジュエリーの型がテキスタイルに刻印されつつ、次第に消えていくという作品です。 そういう作品を作っていたとき、セント・マーティンズの先生がMedia Lab Europe (MIT)の人たちを紹介してくれました。先生の見立てによれば、私の作品が持つ人間的で繊細な感性こそが、現在のテクノロジー開発には足りていない部分であり、今後大切になってくると。その出会いがきっかけとなって、私の作品の中にテクノロジーが導入されていくことになります。 【2回目に続きます】

ロスアラモスから少し標高が下ったところにある風景